2008年12月28日日曜日

理念国家アメリカ

「クラブのOBの方がいらっしゃる集まり」で知り合った方とお会いしてきた。

その方は若い人と話したいそうで、自分なんかを招いてくれたという訳である。自分が若者を代表している(and/orできる)なんて、微塵も思っていないが、とりあえず思うところを意見交換した。

まだ咀嚼せずに書いてしまうということに対して、躊躇や抵抗が無い訳ではない。物議を醸しうる分野でもあるし・・・まあ、考える題材が多い方が人生が豊かになるってことでw 因みに中身はかなり固い(笑)

このお話は春に自分が1ヶ月間短期留学をすることを見越して、新たな視点を与えてくれたのだと思っている。
なお、自分の理解不足や勘違いによって、違うことを書いている可能性があることを予めお断りしておきます。。

内容については、アメリカの国家理念、英語の必要性、そして最後にはアメリカであったウソのようなホントの話を伺った。
(その方によると
なぜ、アメリカか? 超大国アメリカが・・・という論調があるが、これは超大国が出来るまでのプロセスをまったく省いたものであり、妥当ではない。fairだったからこそ、あれだけの力のある国になった。何かと問題になる核兵器であるが、何故アメリカが一番最初に持つようになったのかという理由は、亡命した科学者がfairな国だと思ったからである。)

まず、アメリカ人はfairを重要視(というか大前提に)する。国の前提が、理念(自由とかそれこそここでいうfairとか)の元に集合を呼びかけた国家であるから。彼らにfairでないということが一番の侮辱であり人格否定にまでなるのだと。
ここでのfairという意味は、文字通りに平等であるという意味の他に、あるべき状態に対して、曇りなく達成できているということも含まれているように感じた。
例えば、日本がGHQに占領された後に作られた、日本国憲法。ケーディスという中心に作成した人がいる。彼は、部下から日本が軍国に戻らないように憲法の一部を未来永劫書きかえられないようにしようと言われた。その時の返答が「全力は確かに尽くした。しかし、人間は神では無いのでimperfectであり、後々、もっと優れた人物が出てきたときに、変えられないと良くない」ということで、憲法固定化ということには現になっていない。無条件降伏している国に対して、ちゃんとその後でも、立ち上がれないようにするのではなく、謙虚に取り計らうというところこれがfairなのだと評価していた。
それに、そのfairという概念をもって物事を見れば、単に「利害関係」をも超えたちゃんとしたあるべき姿が見えてくるというのも語っていた。

英語の必要性については以下の数点に分かれる。
英語は欧米の概念の理解を深くするのに必要。例えばdoubt(~ではない~ではなさそうと思う)とsuspect(~ではないかと疑う)の言語的背景を知っていることによって、アメリカの刑事裁判におけるbeyond reasonable doubtというものを初めて理解出来るそうである。
シンプソン裁判(存在を知らずに後でググりましたw)の裁判はおかしいと一般の論調では言われているが、それは違う。上のfairの話も絡んでくるが、刑事裁判は一点の曇りが無くクロと出ない限り、無罪にする。裁判員(一般人もアメリカの政治制度では陪審員として参加すると聞いた)は多分彼がやったと思っていたという。しかし、後に無罪の人に死刑を言い渡すという最大の過ちを起こさない可能性が無いとは否定できないので、本当に涙を流しながら「無罪」。涙は被害者の無念を思ってのこと。感情に流されずにfairであろうとするところに感心したという。
これとはまた違う話で、publicの訳はおかしいという。訳すなら、江戸時代から存在した「皆の衆」という言葉のように、public = 衆 とならないといけない。しかし、そうではなく公である。公の意味は「御公儀」で民を支配しているお上から発せられるものという意味合いもあるらしい。公務員が衆務員に名前を改めないと変わらないのではという考えをもたれているようだった。

それから、自分の意見(この段落だけだが)として、英語圏に対して教育を受ける機会を相対的に減らさないためにも、英語は本当に大切だと思っている。この3つ前のspeechの内容と重複するところがあるが、世界の有名大学の授業というものがどんどんInternet上にアップロードされている。ネット環境があれば、今まで教育の受ける機会の無かった誰であろうと世界の名だたる授業を受けることが出来るのだ。ただし、『英語』で・・・
確かに日本語のコンテンツもアップロードされている。しかし、質・量共に英語のものに比べて低いと云わざるを得ない。つまり、一般人が英語で授業を理解できない限り(偉そうな事を書いているが、自分も大して英語力が無いので大きな事を言えないのだが)、英語圏や英語を理解出来る人たちと比べて学力に差がついてしまうのである。これは、技術立国である日本にとって死活問題であるように思う。



アメリカでの面白いエピソードは以下のようなものである。

それは、ニューヨークのマンハッタンに暮らしていた80年代の冬の日。
住まいの近くには、ガソリンスタンドが一軒しかなかったそうである。そして、そこの店員が・・・
ガソリンを入れるため、車を止める。
?? なのに出てこない。 寒いから嫌らしい。
出てこいと手招きすると、渋々あからさまに嫌そうに出てきて"What?"
(店員が「何?」って、おい!と突っ込みたくなるw給油しに来たのに・・・)
「車を満タンにしろ!」というと"No!"
おつりの小銭を払うのが面倒だから(笑)

パン売り場でジャム入りパンを頼んだら、どれか分からないので、潰して確認してから
"It's jam☆"と売りつける販売員もいたらしい。そりゃ、買えんだろ・・・

更には、スーパーで同じものを10個買ったとき、レジが適当で、11個買ってしまったことになったそうだ。
普通は謝って、10個にしてから処理すべきところを、「もう一個買って!」そうすれば"Everyone is happy♪"になるらしい。そりゃ、あんたはね・・・

とまあ、アメリカはピンキリまでいる面白い国であるそうだ。(自分もそう思うけど・・・w こんなケースは幸い春の一人旅では出くわさなかった)

でもまあ、fairの話にしろ、そうでない話にしろ理念があるところに道は拓ける思う訳ですよ。その中でアメリカが「世界の実験場」として機能しているのは意味があるのではないかと。今はサブプライムローンに端を発する(曰く、そもそもサブプライムは貧しい人もちゃんとした家を持てるように、つまりfairを実現するためにとられた措置という)金融恐慌で、その実験場は上手く行っていないが、そのfairの考え方ある限り、アメリカは息を吹き返すだろうというのがお考えでした。今使ってるInternetにしろGoogleにしろ、開発費が高すぎてリスキーなCPUにせよ(今使ってるのはbaniasで旧式だけどw)、全てアメリカ発であることを考えると、そのOBの方のお話には共感すること大でした。

因みにHOCのタイトルが気になってる方がいらっしゃるようですが、これには自分の理念チックなものも入れ込んだつもりです。暇な方は考えてみてくださいな。

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